「辞めたら返せ」の誓約書は有効か|姫路の特定社労士が考える、契約教育の空白と経営者の責任

自治医科大学を2022年に卒業した医師が、母校と愛知県を相手取り、修学資金3,766万円の一括返還を求められる制度は違憲・違法だとして東京地裁で争っています。2026年8月26日の第7回口頭弁論後に開かれた会見の内容が、大きな議論を呼んでいます。

ネット上の反応は、きれいに割れています。「約束したんだから返せ」「税金で医者になったんだから文句を言うな」という声と、10代のうちに十数年先まで進路を縛られるのは酷だ、という声。どちらも一定の理があると思います。

先に私の立場を書いておきます。契約をしたのは自分なのだから、責任は負うべきだと考えています。ここは譲りません。サインした以上その内容に縛られるのは当たり前で、「知らなかった」は社会では通用しない場面のほうが多いからです。

そのうえで、私が以前からずっと言い続けていることがあります。中学か高校で、契約に関する授業をやるべきだ、ということです。そしてこの話は、若手や学生ではなく、契約書を作って判を押させている経営者の側にこそ、返ってきます。


目次

  1. 18歳がひとりでサインできるようになった日、学校では何が変わったか
  2. 本人が納得して署名しても、効かない条項がある
  3. その誓約書、書いたのは自治医大ではなく御社です
  4. 紙で縛る前に、やることがある
  5. よくある質問
  6. まとめ

18歳がひとりでサインできるようになった日、学校では何が変わったか

社会に出れば、ほぼ全員が何らかの契約を結びます。雇用契約、業務委託契約、賃貸借契約。今回のような修学資金制度も、そのひとつです。

にもかかわらず、契約とは何か、権利と義務がどう対になっているのかを、まとまった形で教わった記憶がある人はどれだけいるでしょうか。私はほとんど聞いたことがありません。

しかも、2022年4月1日から成年年齢は18歳に引き下げられました。高校在学中に、保護者の同意なしで単独の契約が結べる年齢になったということです。サインできる年齢は下がったのに、サインの意味を教える機会は増えていません。

このズレを放置したまま「契約したんだから自己責任だ」とだけ言うのは、私は乱暴だと思っています。自己責任という言葉は、判断するための材料と時間が本人に与えられていて、初めて成立するものだからです。

報道によれば、原告の医師は、地域医療に従事する大学だという点は理解して入学したと認めたうえで、知らされていなかった点が2つあったと語っています。ひとつは、卒業後の約10年間、勤務地も診療科も決められ、離脱すれば元本に損害金が加わって一括返還を迫られるという条件の苛烈さ。もうひとつは、その具体的な契約内容が、国立大学の受験機会を失った入学手続きの段階で初めて示されたという経緯です。

裁判の結論は司法が出すものなので、ここで白黒をつけるつもりはありません。ただ、この構図を「本人の自己責任」の一言で片づけてしまうと、教育の空白という一番大事な論点が、そのまま次の世代に持ち越されます。


本人が納得して署名しても、効かない条項がある

契約は自由です。しかしその自由には、法律が意図的に例外を置いている領域があります。労働基準法第16条は、こう定めています。

「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない」

賠償予定の禁止と呼ばれる条文です。辞めたらいくら払え、という取り決めを、労働契約についてあらかじめしておくことはできません。本人が納得してサインしていても、です。

なぜ法律がここまで踏み込むのか。同意の質が担保できない場面があるからです。情報量に差があります。断る自由が、実質的にありません。判断する時間も与えられていません。そうした状況で交わされた同意は、形式としては同意でも、本人の意思を正しく反映していない可能性があります。

ここが、私が教育の話をする理由でもあります。契約リテラシー教育とは、この「同意の質」を本人の側から引き上げる営みです。教育で質が上がれば、法律があとから救いに行く必要は減ります。言い換えると、いまの労働基準法第16条は、教育のサボりを肩代わりしている状態です。

なお、自治医大の件では、この労働基準法第16条を適用できるかどうか自体が争点となっており、大学側は、貸与したのは大学であり雇用主は県だという理由で適用を否定していると報じられています。この裁判が16条違反で決着した話ではない、という点はご注意ください。


その誓約書、書いたのは自治医大ではなく御社です

「約束したんだから返せ」。この言葉は、実は経営者が一番よく口にする言葉でもあります。

  • 資格取得の費用を出したのに、3年経たずに辞めた
  • 研修に参加させたのに、直後に転職した
  • 引越し費用を負担したのに、半年でいなくなった

こうしたご相談は、本当によくいただきます。そして多くの会社の誓約書や規程には、こう書かれています。「3年以内に退職した場合は、費用を全額返還する」。

お気持ちは、私も経営者なので痛いほどわかります。ですが、書き方を誤ると、この条項は労働基準法第16条に触れる可能性があります。同法第119条は、第16条に違反した者を6か月以下の拘禁刑又は30万円以下の罰金に処すると定めています。実際に刑事事件になる例は多くありませんが、罰則が用意されている類の条文だということは知っておいてください。

無効になれば、返してもらえないだけでは済みません。その紙一枚が、労働基準監督署への申告や、未払い賃金の話にまで発展することがあります。

つまり、契約を教わっていないのは10代の受験生だけではない、ということです。契約書を作り、判を押させている側も同じです。

争いになったときに見られる主なポイント

  • その研修や資格取得は、業務命令だったのか、本人の希望だったのか
  • その資格は、会社を辞めても本人の財産として残るものか、社内でしか使えないものか
  • 返還を免除するまでの期間は、費用の額に対して合理的か
  • 請求している金額は、実際にかかった費用の範囲内か
  • 辞める自由を、事実上奪う結果になっていないか

業務命令で受けさせた研修の費用を、辞めたからといって取り戻すのは難しいのが実情です。一方、本人の希望による資格取得を会社が立て替え、一定期間勤務すれば返済を免除するという貸付の形であれば、有効と判断される余地があります。ただし、これは個別の事情で結論が変わる領域です。自己判断せず、誓約書や就業規則を一度専門家に見てもらってください。

誤解のないように書いておくと、私は費用返還の規定そのものを否定しているわけではありません。会社がお金を出した以上、何らかの取り決めがあるのは当然です。問題は取り決めの中身ではなく、それを相手が理解できる形と時間で示したかどうかです。


紙で縛る前に、やることがある

誓約書は、私が言うところの「ハード」そのものです。そして紙で決めたことは、紙の外では効きません。

「3年以内に辞めたら返せ」と書かれた紙に判を押した社員が、その3年間を前向きに働くかというと、そうはなりません。判を押した瞬間から、その社員の頭にはカレンダーが1枚増えます。あと何ヶ月で、この紙から自由になれるのか。会社が期待した3年間の貢献ではなく、3年間の消化が始まります。

本当に辞めてほしくないなら、返還条項の年数を延ばすより先にやることがあります。なぜこの資格を取ってほしいのか。取ったあと、会社の中でどう活かしてほしいのか。それを本人に伝えたかどうかです。

伝えていれば、資格取得はコストではなく投資になります。伝えていなければ、ただの負担の押しつけになります。契約書という紙は、その会話をした証拠を残すためにあるのであって、会話の代わりに使うものではありません。


よくある質問

Q1. 資格取得の費用を会社が出した場合、辞めた社員に返還を求めることは一切できないのですか?

一切できない、というわけではありません。労働基準法第16条が禁じているのは、労働契約の不履行について違約金を定めたり、損害賠償額をあらかじめ予定したりする契約です。問題になるのは「辞めたら罰として払わせる」形になっているかどうかです。本人の希望による費用を会社が立て替え、一定期間勤務すれば返済を免除するという貸付の形であれば、有効と判断される余地があります。ただし、費用が業務命令によるものか、金額や免除期間が合理的かなど、個別の事情で結論が変わります。既存の誓約書がある会社ほど、一度確認されることをお勧めします。

Q2. 本人が納得して署名しているなら、問題ないのではないですか?

署名があれば安心、とはなりません。労働基準法第16条は、本人の同意があっても効力を認めない類の規定です。雇う側と雇われる側では、情報量にも交渉力にも差があります。その差を前提に、法律があらかじめ線を引いているとお考えください。だからこそ、署名をもらうことよりも、内容を相手が理解できる形と時間で示すことのほうが、実務では重要になります。


まとめ

  • 契約した責任を本人が負うのは当然。その原則は否定しない
  • ただし自己責任は、判断する材料と時間が与えられて初めて成立する
  • 成年年齢は2022年4月1日から18歳。サインできる年齢は下がったが、教える機会は増えていない
  • 労働基準法第16条は、労働契約の不履行についての違約金・損害賠償額の予定を禁止している
  • 誓約書はハードの道具。なぜ費用を出すのかを伝える対話と両輪で初めて機能する

権利があれば、必ず義務がある。これを経営者向けに言い換えると、こうなると思っています。義務を課す権利を持っている側こそ、その義務が法的に有効かどうかを知る義務があります。

誓約書や就業規則の点検は、当社でなくてもかまいません。労務に強い専門家であれば、どなたでも構わないと思っています。

そのうえで、うかがいたいことがあります。御社の誓約書には、辞めたら返せ、と書かれていないでしょうか。書かれているとしたら、その一文に最後に人の目が通ったのは、いつでしょうか。

筆者プロフィール

泉 正道(いずみまさみち)|特定社会保険労務士/採用定着士/生成AIアドバイザー

姫路を拠点に中小企業延べ150社以上へ伴走。採用・定着・労務の相談累計3,000件超(2026年8月現在)。北は福島、南は佐賀まで顧問先があり、全国オンライン対応。

中卒→ニート→売れない漫画家→特定社労士。国立高専を半年で中退し、20代前半は全国誌でギャグ漫画を2年間連載するも、鳴かず飛ばずのまま終わる。定職に就かない時期を経て、勤め先では悪質な嫌がらせにも遭う。「仕事ができない人間」として過ごした日々と、あの職場の記憶。その両方が社労士を志すきっかけとなる。2014年に社会保険労務士登録、2019年7月に独立。

「採用より定着が先」——これが口癖であり、信念。耳が痛くても言い続ける。親に与えてもらった環境や収入を「全て自分の力」と誤解する2代目社長に、常識を教えてあげたところ、解約された過去あり。それでも伝え続けるのが私の役目だと思っている。

支援の軸は制度(ハード)と対話(ソフト)の両輪。就業規則や評価制度を整えるだけでも、研修や面談を繰り返すだけでも、人の問題は解決しない。両方が噛み合って初めて、人が辞めない組織が動き出す。伴走と「耳が痛い話」ができる社労士でありたい。

生成AI支援では「研修を受けた企業の9割が1ヶ月後に何もしていない」という現実に向き合い、クライアントのPCを直接触り、その日のうちに仕組みを作る「実装型伴走」を展開。商工会・商工会議所・大手生命保険会社でのセミナー講師としても精力的に活動中。