退職金の廃止・不利益変更は、理由なく進めれば会社が負ける——姫路の特定社会保険労務士の実務メモ

「退職金制度、そろそろ見直したい」。こう相談してくる経営者は、実は少なくありません。

先にはっきり言っておきます。退職金の廃止や不利益変更は、正当な理由なく進めれば、争った場合に会社が負けます。これは脅しではなく、実務上の現実です。「経営判断だから」「会社の自由だから」という理屈は、労働紛争の場では通用しません。

物価上昇、賃金のベースアップ。かつて設計した退職金規定が、いつの間にか会社の重荷になっているケースが増えています。それでも、見直しを「なんとなく」進めようとする経営者があまりに多いのが実情です。今日は、その危うさと、正しい進め方を実務メモとして共有したいと思います。


目次

  1. 退職金は「もらえるはずのもの」に変わっている
  2. いきなり難しい相手に話すと、感情の対立になる
  3. 同意を取りやすい人から、着実に進める
  4. 「廃止」か「凍結」か、決め方の軸
  5. よくある質問

退職金は「もらえるはずのもの」に変わっている

退職金は、法律で必ず支払わなければならないものではありません。就業規則や退職金規定に定めがあって、初めて発生する制度です。労働基準法にも「退職金を必ず設けなさい」という規定はなく、あくまで会社が任意で設計するものなのです。

ただし、ここに最大の落とし穴があります。一度制度として運用してしまえば、それは従業員にとって「将来もらえるはずのもの」に変わります。賃金の後払いのような性格を帯びるからです。労働契約法上、こうした既得の利益を会社側の一方的な都合で奪う行為は「不利益変更」にあたり、合理的な理由がなければ無効と判断されます。つまり、経営判断で「もう払いません」と決めても、それだけでは法的に通らないのです。

ある企業の事例では、勤続年数を重ねて退職金の対象になっている従業員が複数名いる状況でした。制度を大きく見直したいという経営者の意向は理解できます。ですが、進め方を誤れば、単なる制度変更のつもりが、労働紛争に発展しかねません。

実際に争いになった場合、裁判所は「なぜ制度を変える必要があったのか」という経営上の理由を厳しく審査します。会社の業績が厳しく、退職金の負担が経営を圧迫しているという客観的な事情があって初めて、変更の合理性が認められる余地が出てきます。逆に、業績が堅調な中で「なんとなく重荷だから」という理由だけで変更しようとすれば、ほぼ確実に労働者側の主張が通ります。理由のない不利益変更は、争えば会社が負けます。これが実務上の原則です。


いきなり難しい相手に話すと、感情の対立になる

退職金制度の見直しでよくある失敗が、一番反発しそうな相手から先に話をしてしまうことです。

例えば、退職金の金額が大きくなりそうな幹部や、待遇に強いこだわりを持つ人物。こうした相手にいきなり「制度を変えます」と伝えると、身構えられて当然です。話し合いというより、交渉、あるいは対立の構図になってしまいます。

一度こじれると、他の従業員にも「あの人が反発している」という空気が伝わります。そうなれば、制度変更そのものへの不信感が組織全体に広がりかねません。

特に注意したいのは、専門職やベテラン社員など、他のスタッフと給与体系そのものが異なる立場の人です。こうした人は「自分だけ特別扱いされていない」という感覚を持ちやすく、話の持っていき方次第で態度が大きく変わります。事実関係を丁寧に説明する準備をせずに切り出すと、話がこじれるリスクは一段と高くなります。


同意を取りやすい人から、着実に進める

では、どう進めるべきでしょうか。答えはシンプルで、制度への理解が深く、同意を得やすい従業員から着実に話を進めることです。

ある企業の事例に置き換えてみると、進め方はこう整理できます。

  • 対象者:まず経営方針への理解が深く、長年会社に貢献してきた従業員から着手
  • 説明内容:制度を維持することが難しい経営的な背景を、数字とともに丁寧に伝える
  • 同意の積み上げ:一人ずつ理解を得て、「みんなも納得している」という土台を作る
  • 最終交渉:土台ができたところで、最も難しい相手と向き合う

こうして順番を踏むだけで、最後の難しい交渉の空気は大きく変わります。「自分だけが反対している」という状況を相手に自覚させることは、決して意地悪ではありません。組織全体の納得感を守るための、正当な進め方です。

なお、同意を取る際は「なぜこの制度が対象外なのか」という根拠を、口頭ではなく資料として残しておくことも重要です。母体となる法人や関連組織にすでに同様のルールがある場合は、その実態を示すことで説得力が増します。「他でもそうなっている」という客観的な事実は、感情的な反発を和らげる材料になります。


「廃止」か「凍結」か、決め方の軸

退職金制度の見直しには、大きく2つの選択肢があります。ひとつは、規定を残しつつ金額の算定基準だけを見直す方法。もうひとつは、一旦制度を凍結し、新しい仕組み(例えば養老保険の活用など)を検討してから再構築する方法です。

どちらが正解ということはありません。会社の業績、対象者の人数、代わりに用意できる制度の有無によって判断が変わります。大事なのは、「なぜ変えるのか」を経営者自身の言葉で説明できるかどうかです。数字の理屈だけでは、人は納得しません。

迷ったときの判断軸としては、「対象者の人数が少なく、個別に丁寧なフォローができるか」「代替となる制度をすぐに用意できるか」の2点を確認するとよいでしょう。どちらも難しい場合は、無理に急がず、まず現行のルールのまま据え置き、水面下で新しい制度の検討を進めるという選択肢も十分に現実的です。

私がいつも伝えているのは、制度(ハード)を変えるときこそ、対話(ソフト)が欠かせないということです。規定を書き換えるだけでは終わりません。一人ひとりと向き合い、納得を積み上げる作業があって初めて、制度変更は機能します。

最近相談が増えているのが、退職金の原資を養老保険などで積み立てる仕組みです。法人が契約者となり、対象となる従業員を被保険者として保険料を積み立てます。要件を満たせば経費として計上でき、将来の退職時にその資産を退職金として渡すことができます。ただし、保険会社と従業員本人が直接面談する必要があったり、健康状態によっては加入できないケースもあります。制度を検討する際は、こうした細部まで確認してから最終判断することをおすすめします。


よくある質問

Q. 退職金制度は、就業規則を変えれば自由に廃止できますか?

A. 形式上は変更できますが、既得権を持つ従業員への不利益変更にあたるため、個別の同意を得るのが原則です。一方的な廃止は、後日の紛争リスクを高めます。

Q. 一部の従業員だけ退職金の対象外にすることはできますか?

A. 雇用形態や職種によって差を設けること自体は可能です。ただし「なぜ差をつけるのか」を合理的に説明できなければ、不公平感の温床になります。同意を取る面談は一人あたり最低でも30分は確保し、数字の説明だけでなく、これまでの貢献への感謝と今後の処遇への反映まで含めて話すと、納得感がまるで違います。急いで済ませようとするほど、後で反発が出やすくなります。


まとめ:制度を変える前に、順番を設計する

退職金制度の見直しは、内容を決める前に「誰から、どう話すか」を設計することが成功の鍵を握ります。同意を得やすい人から着実に進め、最後に難しい相手と向き合う。この順番を踏むだけで、交渉の空気は大きく変わります。

制度を変えるという決断は、経営者にとって決して軽いものではありません。だからこそ、思いつきで進めるのではなく、順番とタイミング、そして伝え方まで含めて設計図を描いてから動き出してほしいと思います。

退職金制度の見直しや、就業規則の不利益変更に不安を感じたら、ぜひ当社にご相談ください。

筆者プロフィール

泉 正道(いずみまさみち)|特定社会保険労務士/採用定着士/生成AIアドバイザー

姫路を拠点に中小企業延べ150社以上へ伴走。採用・定着・労務の相談累計3,000件超(2026年6月現在)。北は福島、南は佐賀まで顧問先があり、全国オンライン対応。

「採用より定着が先」——これが口癖であり、信念。耳が痛くても言い続ける。親に与えてもらった環境や収入を「全て自分の力」と誤解する2代目社長に説教して解約された経験あり。それでも伝え続けるのが私の役目。

支援の軸は制度(ハード)と対話(ソフト)の両輪。就業規則や評価制度を整えるだけでも、研修や面談を繰り返すだけでも、人の問題は解決しない。両方が噛み合って初めて、人が辞めない組織が動き出す。伴走とダメ出しができる社労士。

生成AI支援では「研修を受けた企業の9割が1ヶ月後に何もしていない」という現実に向き合い、経営者のPCを直接触り、当日に課題を解決する「実装型」の伴走を展開。商工会・商工会議所・大手生命保険会社でのセミナー講師としても精力的に活動中。